雨続きの一週間だった。季節は梅雨もまっただ中であり、太陽もこの頃は陰気な顔しか見せなくなっていたが、花粉症の瑞音にはありがたい季節であった。
日曜日といえど、日付が変わる間近にもなれば、辺りに人気は無かった。気晴らしに、と昼下がりに映画を観に行ったは良いが、一人で出歩くその自由さについつい帰宅が遅くなってしまうのが瑞音の常であった。
最寄り駅から真っ直ぐにトボトボと帰路を進め、T字路突き当たったところを左に曲がり、よく馴染みのある商店街を通る。日中とは違う顔を見せる暗い商店街に聊か恐怖を覚え、映画の内容を思い出して気を紛らわせ、足早に過ぎ去ろうとすると、背後から、声がした。体がビクンと跳ね上がり、頭がフル回転する。一気に体が冷たくなっていくのを感じながら恐る恐る振り返ると、五歩ほど下がった後ろに、声の主が居た。シャッターの閉まった果物屋の前に広げたブルーシートの上に座る、小さな・・・どうやら、老婆だった。不審者か?雨宿りか?しかし、こちらに向けた顔は柔らかく微笑んでいた為、瑞音はあまり警戒心を持てなかった。
「お嬢さん」
老婆は優しげな声で呼びかけてきたが、若干の警戒心を拭えない瑞音はその場を動かぬまま短く応えた。
「お嬢さん」
こちらに来いと言わんばかりにもう一度呼びかける老婆に、仕方なく瑞音は近づいた。後に、この疲労感に起因した油断の選択を後悔することとなる。
ブルーシートの上に、ちょこんと正座した老婆は、とても小さく思えた。膝のあたりには、手作りらしきアクセサリーや、用途の分からない小物が整列している。どうやら露店のつもりらしい。だが時刻は0時を過ぎている。どうしてこんなところに、しかも老婆が?不審者には違いない。
「どうされましたか?」
なるべく疲労感が声に乗らないように、人懐こい笑顔を浮かべて瑞音は老婆と同じ目線になるようしゃがんだ。
「お嬢さん、何か欲しいものがあるでしょう」
しまった、と瑞音は思った。これは新手の商法に違いない。相手は無害な老婆と見せかけておいて、油断した人間をカモにする・・・きっと老婆の裏には誰かが糸を引いているに違いない。かと言って、瑞音にはその場を立ち去る程の他人に対する冷たい強さが無かった。返事をして近づいてしまった自分が悪い。自責の念は瑞音にとっては長年の腐れ縁だったので、特に気にすることでもなかった。更には、自分がこのあくどい商法に引っかかることにより老婆の生活が少し良くなるのであれば、まあそれも悪くはないとさえ思っていた。
「欲しいものは・・・特にありませんが・・・そんな顔、してましたか」
瑞音が、ふふ、と笑うと、老婆は真っ直ぐな目を返した。その全てを見透かすような目に瑞音は少し気まずさを覚えた。冗談のつもりだったが、嫌味ったらしく響いただろうか?
「・・・あ、すみません」
しかし瑞音の声を遮るように老婆は話し始めた。
「お嬢さんは、心を休める時間が必要みたいだねえ」
「え・・・あ、はい、今日も一人で映画を観てきました」
老婆の意図が見えない会話に瑞音は心が重くなるのを感じた。詐欺にひっかかった上に、こんな深夜にどうでも良い当たり障りのない会話。まさに不毛な時間だった。雨の音が強くなってきている。早く帰りたい。
「映画なんかじゃお嬢さんの心は自由になれないだろうね」
「そうですか」
「あのね・・・これ、きっとお嬢さんの役にたてると思うわ」
来た!と瑞音は心の中で叫んだ。遂に営業の本題に入るのだろう。何であれ、特に値段に問題が無ければすぐに購入して帰れば良い。家の風呂の湯船に浸かっている自分を想像し、瑞音の心が少し和らいだ。

老婆が巾着から差し出したのは、ルービックキューブの1ピース程の大きさの正方形がぶらさがったネックレスだった。無色透明のガラスでできた何の面白味もないそれに、もう少し細工でも施したら、まだ実用性も見いだせただろうに。しかし瑞音の口は綺麗なまでに本心を隠すことに徹したのだった。
「綺麗で可愛いネックレスですね・・・おいくらなんですか?」
「要らないよ」
「え」
「お金は要らないの」
「え・・・売り物じゃないんですか」
「それはね、然るべき人が持つもので、ずっと人から人へ受け継がれてるのよ」
老婆の目的はまた分からなくなってしまったが、悪意のなさそうなその行動に、一度でも老婆を疑ってしまったことを心で詫びた。

「こんな大切そうなもの、いただいて良いんですか」
「もちろん。あなたに差し上げたいのよ」
そう言って老婆がネックレスをこちらに差し出すので、瑞音は反射的に受け取ったが、瑞音の指がガラスのキューブに触れた途端、指先が熱を帯び、ガラスの中に緑色の光が宿り、辺りが暗闇に包まれていった。瑞音は驚いて老婆の顔をみようとしたが、もうそこに老婆の姿はなく、遠くなる意識に身を預けるしかなかった。

薄れる意識の中で老婆が何か言うのが聞こえたような気がしたが、瑞音の記憶に言葉としてそれが残ることは無かった。